1587年、バテレン追放令によって、豊臣秀吉は九州においてのキリスト教の禁止を命じていたが、1596年10月のサン・フェリペ号事件をきっかけに同年12月8日に再び禁教令を公布、キリシタン弾圧が始まった。
秀吉は京都奉行の石田三成に京都に住むキリスト信徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。三成は、犠牲者を出来るだけ減らそうと努力したが、大阪と京都で外国人宣教師・修道士6名、日本人修道士と信者18名の合計24名が秀吉のキリシタン禁止令によって捕縛された。
24名は、1597年1月10日長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を発ち、京都・大阪で引き回しとなり、京都では左の耳たぶを切り落とされ、厳冬時期歩いて、長崎へ向かった。また、途中でイエズス会の世話役ペトロ助四郎と、フランシスコ会の世話役伊勢の大工フランシスコ、2名も捕縛され殉教の列に加わり、26名となった。
同年2月4日、長崎・時津に到着、舟中で一泊、翌1597年2月5日(慶長元年12月19日)の朝、ひどい霜の中、3里(約12㎞)の浦上街道を歩き午前10時頃西坂の丘に到着。すぐに十字架に掛けられ、槍で両脇を突かれ、26名は長崎の西坂の丘で殉教した。
一行の中に12歳の少年、ルドビコ茨木がいるのを見た寺沢半三郎は、幼い少年を助けようと思い信仰を捨てるよう言ったが、ルドビコ茨木はこの申し出を断っている。また、パウロ三木は死を目の前にして、周囲を取り囲む約4000人を超える群集の前で十字架に架けられたまま最後の説教を説いたという。
この26人の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、1862年(文久2)6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、26名の殉教者を聖人に加えられ、日本二十六聖人と称せられた。